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東京地方裁判所 平成3年(ワ)4543号 判決

原告

鈴木幸子

右訴訟代理人弁護士

荻原富保

被告

株式会社日本写真新聞社

右代表者代表取締役

伊賀謙三

右訴訟代理人弁護士

岩月史郎

主文

一  原告の主位的請求を棄却する。

二  予備的請求に基づき、被告は、原告に対し、三〇四万二〇〇〇円及びこれに対する平成六年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員並びに平成六年一月から平成一四年一〇月まで毎月末日限り各七万八〇〇〇円、同年一一月末日限り七万四四〇〇円をそれぞれ支払え。

三  訴訟費用は、これを五分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。

四  この判決の第二項は仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  主位的請求

被告は、原告に対し、一一三八万四四〇〇円及びこれに対する平成二年一〇月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  予備的請求

主文第二項同旨

第二事案の概要

一  本件は、原告が被告に対して退職金の支払いを求めたものであり、被告は原告が退職する前に原告に対して懲戒解雇の意思表示をしたと主張してその支払いを拒絶している事案である。

二  争いのない事実

1  原告は、昭和三五年九月二八日、被告会社に見習社員として採用され、昭和三六年一二月二八日正社員となったもので、平成元年八月二一日当時、被告会社の経理担当をしていて、会計帳簿の記入、金庫の管理その他被告会社の経理全般を行なっており、平成二年六月一五日に総務部長に任命された。

2  被告は、写真新聞、写真資料、写真図書の出版及び販売等を目的とする会社である。

3  原告は、平成二年七月一五日、被告会社との間で、原告の退職金が同年一〇月二〇日現在で一一三八万四四〇〇円であること、これを分割して同月から平成一四年一〇月まで毎月末日限り各七万八〇〇〇円を、同年一一月末日限り七万四四〇〇円を支払う旨の覚書を交わし、同年九月二八日、被告会社に退職届を提出したが、その後も被告会社に勤務を続けた。

4  原告は、平成三年二月二一日頃、被告会社取締役井坂弘毅(以下「井坂」という。)に対し、同年三月二〇日付退職届を提出した。

5  井坂は、原告に対し、平成三年三月二〇日付で、懲戒解雇する旨の意思表示をした。

三  争点

1  原告が平成二年九月二八日に被告会社に提出した退職届は、退職の意思表示としてされたものであったか。

2  退職金分割払いの合意は有効か。

3  本件懲戒解雇の意思表示は有効なものか。

四  当事者の主張

1  原告

(一) 被告会社には、かつて強力な労働組合があり、ほとんど遊んでばかりの従業員が多かったが、組合員全員が平成元年七月に退職し、その退職金七〇〇〇万円を銀行から借金して支払った。このほか、井坂の被告会社乗っ取りに気づいた従業員七名も平成二年五月及び七月に順次退職した。

(二) 被告会社は、従業員七名の退職に際し、退職金の計算方法で対立することになったが、訴訟の結果、その従業員らの主張に沿った高率の退職金を支払う和解が成立した。

(三) 被告会社は、従業員七名に対するものと同率の高い退職金を他の従業員に対しても支払うことを余儀なくされることを恐れ、原告を含む他の残留従業員の退職金を低率に押さえるための交渉を始めた。

(四) 原告を含む他の残留従業員全員は、被告会社の経営状況を知っていたので、平成二年一〇月二〇日、被告会社側が呈示した案、すなわち、従業員は一旦退職し、それ以上の退職金支払の負担が増えるのを押さえるとともに、退職金を分割払いとする案に不本意ながら同意した。なお、原告の退職届は、これに先立つ同年九月二八日に提出されていた。また、覚書は、同年七月付となっているが、実際に交わされたのは、前記のとおり同年一〇月二〇日であった。

(五) 原告は、平成三年二月二一日頃、井坂に対し、同年三月二〇日付退職届を提出した。原告は、同月二〇日、井坂が代表取締役となっている会社の志村某に対し、被告会社の現金・預金等の引継ぎをした後、右志村某から「家に帰ってゆっくりみて下さいよ。」と言われて封筒を手渡されたが、それに同月一九日付解雇通知書が封入されていた。しかし、被告会社の代表取締役は、右解雇につき、取締役会を開催したことはないし、井坂に人事権の行使を委任したこともないのであって、井坂には被告会社を代表する権限がないから、右解雇は井坂の独断によるものであって無効である。

(六) しかも、原告は、被告会社が懲戒理由として主張する島田明子名義の口座開設及びパイオニアの株式購入の事実すら知らなかった。これは、井坂が、退職従業員からの被告会社財産に対する保全処分を免れる目的で、被告会社の金員操作を指示して画策したものである。本件懲戒解雇は、虚偽と悪意による無効なものである。

(七) よって、原告は被告に対し、第一次的に平成二年一〇月二〇日退職を理由に、第二次的に平成三年三月二〇日退職を理由に、就業規則または原被告間の合意に基づき、主位的に退職金一一三八万四四〇〇円及びこれに対する遅滞後の平成二年一〇月二一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の、予備的に支払期の到来した平成五年一二月分までの分割退職金合計三〇四万二〇〇〇円及びこれに対する遅滞後の平成六年一月一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金並びに同年一月から平成一四年一〇月まで毎月末日限り分割退職金各七万八〇〇〇円、同年一一月末日限り分割退職金七万四四〇〇円の各支払を求める。

2  被告

(一) 原告は、平成元年八月二一日当時、被告会社の経理担当をしており、会計帳簿の記入、金庫の管理その他経理全般を行なっていた。

(二) 原告は、右同日、島田明子名義で大和銀行八重洲口支店に普通預金口座を開設し、同日付で被告会社の三菱銀行日本橋支店の当座預金から八〇〇万円を引き出して、右島田明子名義の普通預金口座に入金して横領した。

(三) さらに、原告は、平成元年九月二七日、被告会社の小切手と現金三〇〇〇万円を持ち出して横領し、このうち二五六八万五九一五円をパイオニアの株式五〇〇〇株の購入代金にあて、残りの四三一万四〇八五円を前記島田明子名義の普通預金口座に入金して横領した。

(四) また、原告は、同年一二月一三日、被告会社の太陽神戸三井銀行日本橋通町支店当座預金口座から四三〇万円を引き出し、これを前記島田明子名義の普通預金口座に入金して横領した。

(五) 原告は、平成三年一月初め、被告会社の売上金を六億円も水増しした平成元年度決算報告書を捏造し、被告会社の許可もなく、協和銀行にこれを提出してしまい、同行と被告会社の間に大きなトラブルを引き起こした。

(六) 被告会社は、原告の経理上の不正行為を主たる理由に、平成三年三月一九日、原告に対し、懲戒解雇の意思表示をした。

(七) ところで、被告会社は、かねてより経営の圧迫要因であった退職金の一時払の負担を軽減するため、退職金の分割、前払の方法が検討され、平成二年七月から一〇月にかけて被告会社と原告を含む社員との間で会合がもたれ、その結果、それまでの退職金制度を同年一〇月をもって廃止し、二名を除き、残留社員全員が同月をもって退職する形式をとり、各社員から形式的に退職届を預り、同月二〇日時点で確定された退職金を同月末日から各満六五歳になるまで月割りで分割して前払いするという約束がされた。原告も退職届を出しているが、その後も、勤務条件、給与等なんら変更もなく被告会社に勤務していた。そして、原告を除く全従業員に対し、現在も毎月、約束した分割金を支払っている。

(八) したがって、仮に、懲戒解雇が無効であるとしても、原告と被告会社との間において退職金の支払いについて覚書が交わされているから、原告は被告会社に対し、分割払いを求めることができるにすぎない。

第三争点に対する判断

一  争点一(原告の退職の意思表示)について

(一)  当事者間に争いのない事実及び証拠(〈証拠・人証略〉)を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 被告会社では、平成元年八月から同二年七月にかけて、社員の三分の二に当たる一八名の社員が順次退職し、その退職金合計約一億二一〇〇万円の支払のため、被告会社の維持継続が困難な状態になったが、そのうち七名から被告会社に対し退職金請求訴訟を提起され、仮にその一括支払を余儀なくされた場合には被告会社の倒産の恐れが生じた。そこで、被告会社の当時の代表取締役である小村年朗(以下「小村」という。)は、被告会社倒産の危険を避け、かつ、原告をはじめ残留社員一一名の退職金の受領権利を確保するために、残留社員との間に、平成二年一〇月二〇日時点での退職金を確定し、同年一〇月末日から、各社員が満六五歳になるまで、月割りでこれを前払する約束を覚書で交わした。

(2) 残留社員のうち八名は、この覚書に基づいて退職願を提出したが、それはそれまでの退職金を分割して支払を受けることとして被告会社が倒産した場合の権利確保をはかることが目的であって、従前と変らずに継続して勤務することができることを保障されていると理解していた。残り三名は、今後の勤務継続が保障されていない不安があるとして、退職願を提出しなかった。

(3) 原告は、平成二年七月一五日、被告会社との間で、原告の退職金が同年一〇月二〇日現在で一一三八万四四〇〇円であること、これを一四六回に分割し、同月から平成一四年一〇月まで毎月末日限り各七万八〇〇〇円を、同年一一月末日限り七万四四〇〇円をそれぞれ支払う、同月二一日以降は、被告会社が新退職金規定を設け、新規定に基づき算定されることを原告が承諾する旨の覚書を締結し、平成二年九月二八日、被告会社に退職届を提出したが、その後も被告会社に総務部長として勤務を続け、従前と同じ給与を受領していた。

(4) その後、小村は、平成二年一二月一〇日、前記訴訟が和解によって終了し、とりあえず会社倒産の心配がなくなったので、退職願を提出したうえで勤務を継続していた残留社員に対して、退職願は意味がなくなった旨を説明した。そして、被告会社は、同年一〇月から分割退職金を特定退職金共済制度及び経営者年金制度による積立金に充てる方法で退職金の支払手続をしてきたが、この方法では退職金の確保とはならないことが判明したため、平成三年五月、既に懲戒解雇通知が発せられていた原告を除く残留社員に対し、既に履行期の到来した分割退職金を一括して支払ったうえで、同月以降、現実に分割退職金を銀行振込の方法で毎月支払ってきた。

(5) 退職願を提出しながら勤務を続けてきた残留社員のうち五名は、平成三年以降になって次々と現実に退職したが、被告会社から覚書所定のとおりの退職金を在職時と同様に現に分割で支払いを受けている。

(6) 原告は、平成三年二月二一日頃、婚約を理由に被告会社を退職することとし、井坂に対し、同年三月二〇日付退職届を提出した。そして、被告会社は、その後、公共職業安定所長に対し、原告についての同月二〇日付の各種社会保険資格喪失確認通知書及び雇用保険被保険者離職証明書を提出した。

(二)  右事実によれば、原告が平成二年九月二八日に被告会社に提出した退職届は、被告会社が倒産する恐れがあったために原告の退職金を確保する必要があり、また、退職後も原告の雇用を確保するために退職金の支払を分割にする必要があったことから、一旦被告会社を退職して覚書所定の退職金の分割支給を受ける目的でされたものであり、引き続き勤務を継続することが予定されてはいるものの、それは新たな雇用契約に基づくものであって、その時点で従前の雇用契約につき退職の意思表示がされたものであるというべきである。原告と同様にその後に勤務を継続したのちに改めて退職した残留社員が、その時点での退職金の算定をし直さないで、覚書所定の退職金の分割支給を受けているのは、平成二年当時の退職届を有効なものとして受忍しているからにほかならない。また、原告の各種社会保険資格喪失確認通知等が平成三年三月二〇日付でされていて平成二年一〇月二〇日付でされていないのは、同月二一日以降は新退職金規定を設けるものとされていて再雇用を当然の前提としていることから、右手続を不要のものと扱っていたにすぎないのであり、平成三年三月二〇日付退職届を提出したことをもって、平成二年九月二八日に被告会社に提出した退職届が退職の意思表示のない形式的なものであったということはできない。

二  争点二(退職金分割払いの合意の効力)について

原告は、退職金分割払いの合意は無効であると主張するが、被告会社の給与規定には、退職金の支給時期については特に定めがなく、従前は退職者と被告会社との間で合意に基づく適宜の時期に支給されてきたことが認められ(〈証拠略〉)、前記一の認定事実によれば、原告を含む残留社員全員が退職金を分割払いとすることに同意したのは、退職金債権そのものを確保するために必要な措置であり、雇用の継続を実現しながら退職金の受領を可能にするという退職者の利益に沿ったものということができるから、このような事情のもとにおいては右の合意は有効なものというべきである。

三  争点三(懲戒解雇)について

1  前記一、二の事実によれば、被告会社が原告を平成三年三月一九日に懲戒解雇したからといって、その効力を判断するまでもなく、これが既に退職金債権として発生しかつその分割支払義務を履行すべき状況にある権利を遡って消滅させる理由となりえないことは、明らかである。

2  のみならず、被告会社が平成三年三月一九日付でした取締役会名義の通知書には、原告に対する懲戒解雇の理由として、〈1〉総務部長として経理実務の最高責任者の立場にありながら、杜撰極まりない経理作業を続けている、〈2〉総務部長でありながら、ビジネス社会の初歩的なエチケットさえも全くわきまえていない、という点が主たるものであると告知したにすぎず、本件訴訟に至ってから懲戒解雇事由を前記主張にかかる解雇事由に差し替えたものであるところ、本件全証拠によっても、原告に被告主張にかかる解雇事由があることを認めることはできない。

四  結論

以上によれば、原告の主位的請求は理由がないが、予備的請求は理由があるから、これを認容する。

(裁判官 遠藤賢治)

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